墨俣宿(大垣市)概要: 墨俣の地は古くから交通の要衝と知られ度々攻防戦が繰り広げられ、戦国時代には織田信長が稲葉山城(岐阜城)攻略の重要拠点として秀吉に命じ墨俣城を築かせています。稲葉山城(岐阜城)が落ちると軍事的拠点の意味は薄れますが、京都と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道の宿場町として機能は残されました。
江戸時代に入ると東海道の宮宿と中山道の垂井宿とを結ぶ美濃路が整備され、鎌倉街道にあった元々の墨俣宿を現在地に移しました。
墨俣宿は揖斐川と長良川に挟まれていた為、渡し船や川止めの宿として重要視され、多くの旅人が利用しました。特に寛政3年(1791)に琉球使節が墨俣宿を利用しており「琉球国儀衛正毛廷柱」の刻銘入りの石燈籠が奉納されています。
又、幕府は美濃路を五街道に次ぐ重要脇往還とし、大名の参勤交代や、朝鮮通信使、朝廷の勅使なども利用していました。家屋338軒、人口1317人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒。現在は古い町並みが失われつつありますが、歴史ある史跡が点在し当時の繁栄が窺えます。
墨俣宿:上空画像
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