岐阜城(稲葉山城)概要: 岐阜城の前身である稲葉山城は建仁元年(1201)、当時の鎌倉幕府執事二階堂行政が築城したのが始まりと伝えられています。その後、廃城となりますが室町時代に入ると美濃守護代の斎藤利永が、改修し居城とします。
大永5年(1525)、斎藤氏の家臣であった長井長弘が稲葉山城を急襲し長井氏の支配になり長弘が没すると長井氏の名跡を継いだ新左衛門尉(斎藤道三の父)の居城となります。道三の代になると守護代だった斎藤氏の名跡を継ぎ天文8年(1539)に稲葉山城を大改修し、天文10年(1541)には守護職土岐頼芸を追放し美濃を手中とします。
その後、道三は嫡子義龍に家督を譲るものの不和となり弘治2年(1556)長良川の戦いで戦死、その義龍も永禄4年(1561)に若死し若干13歳の龍興が城主となります。この隙をついて織田信長は稲葉山城に侵攻し、龍興はこれを撃退したものの次第に衰微し、永禄7年(1564)に斎藤家の家臣だった竹中重治と安藤守就が反旗を翻し稲葉山城を半年にかけて占拠するという事変が発生し、斎藤家の衰退が顕著になりました。
永禄10年(1576)、織田信長の美濃侵攻により稲葉山城が落城、龍興は伊勢長島へ落ち延び長島一向一揆に呼応しています。信長は岐阜城に名を改めると本格的な城郭へと大改修を行い天下統一への足がかりとし天正4年(1576)に安土城(滋賀県安土町)に移るまでの居城としました。
信長が安土城に移ると嫡子である織田信忠が岐阜城の城主となり、さらに城郭の拡張が行われますが本能寺の変で信忠も信長と運命を共にします。その後、岐阜城の城主に織田信孝がなりますが、織田家の家臣同士の争いや家族間の争い、豊臣秀吉の台頭などで急速に勢力を失い信忠の嫡子織田秀信(三法師)の代には格式はあるものの石高はわずか13万石となりました。
それでも旧領である岐阜城の城主に返り咲き領土経営を行った矢先、慶長5年(1600)、関が原の戦いが起こり秀信は西軍に付いた為、東軍の福島正則や池田輝政から攻められ、岐阜城に立て籠もるものの落城、結果高野山に流され失意のうちに死亡しています。
江戸時代に入ると岐阜城は正式に破却廃城となり、平地部の東側に新たに加納城が築城、岐阜城にあった多くの建物が加納城に移築され加納藩の藩庁が設置されました。現在は岐阜城跡として平成23年(2011)に国の史跡に指定され、平成18年(2006)には日本100名城に選定されています。
岐阜城:上空画像
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