島津義弘陣跡(関ヶ原町)概要: 島津義弘陣跡は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原に位置しています。案内板によると「 戦国の雄・島津軍千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。 関ヶ原町 」とあります。
島津隊は千人程度と他の隊と比べ小数だった為、軽視されたと云われ、当初は東軍として伏見城に入ろうとしたが城主鳥居氏に断られ、西軍に付くも墨俣から撤退の際には置き去りにされ、作戦会議でも義弘が進言した奇襲作戦が取り入れられず、関ヶ原の戦いの際でも石田方の使者が馬から下りず見下したなどの逸話が残っています。
真意は不詳ですが、戦意的には非常に低かったとされ、一般的には殆んど戦いには参加しなかったと言われています。適中突破の後、領国まで戻ったのは80名程度とされ、領内上げて徳川家に対するように軍備を増強しますが、徳川方から見ると豊臣家が健在の中再び戦を起こすのは得策ではなく、西軍として取り潰しになった大名の浪人が多数いるなか、むやみに動く事が出来ず、結果として島津家の領土を安堵するという異例的な処置がなされました。
島津義弘陣跡:上空画像
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